昭和42年01月09日 夜の御理解
神の権威にかけて、奇跡を見せると仰る。神の権威にかけて、おかげを見せるという事なんです。その神様の働きというものを、見せてやると言う訳なんです。何故、その神様が権威に、神の権威にかけてその奇跡でも見せて下さるかと。本当にこの神様との、氏子との繋がりというものをいかに神様が求めて御座るかと云う事が分かります。本当神様ちゃやっぱ御座るなぁ、と云う様なものを見せて下さる。それはあの、霊様の場合だって同じことが言えると思うですね。
私、今日はあの、善導寺、丁度、大体三日祭というのがある。で三日祭が丁度お葬式に当たってましたから、今日で丁度五日にもなりますので、同時に元旦から、元旦のあの御年始にも親教会出ていませんでしたし、丁度古賀さんが参りましたから、玉串だけあちらえちょっとあのことづけ、先にことづけておる。そして親教会に御挨拶させてもらって、あちらに参ったんです。
そしてまぁ、あちらでまぁ簡単なお祭りを仕えさせて頂いて、まぁゆっくりして帰って来たんですけれども。その時私話した事でございますけれども。そうで御座いますね、先生が亡くなられたのが4日です。4日ですから、5日6日葬式の前の日。告別式の前の日までは、もう本当にすごいお勇みでしたよ。私が霊神様に出ますと、久保山先生の霊ばあすこ呼び出すとです、本当カチッとお勇みがあるですね。
そして、ここへつくと、ここの硯箱にバリバリバリっていうお勇みがつくんですよ。はぁ本当にもうその、もう至る所にこうやって先生が働いておるなって、私は思ってたんですけれど、所がね。あの告別式を終わらせて頂いたら、それっきりお勇み頂きませんです。是なんかはそれを、霊は分からせようとしておる訳なんです。私は今日善導寺で話すまではね、どうしてじゃろうかっち言うてあの、皆とあの、あっちの子供達が申しますけど。どうしてっち分からなかったんです。
今晩の御理解頂いてから、はぁそれがそれなんだと、神様が、神の権威にかけても、しか、その奇跡を見せると仰る様に、霊は霊の力のある所をですね、この位力が親先生頂いておりますよという印を見せて下さるんです。そこでその、私はまぁ思うですね。例えば椛目で、皆さん信心の稽古をなさっておられる方は、もう大なり小なり、生きた神様の働きというものを目の当たりに、言わば見ておられる。
成程神様のご都合、神様のお働き。神様はもう御座るの、御座らんのとは言われんと云う様な実証をですね、いうなら、まぁいやという程椛目では、皆さん頂いておる訳なんです。言うならその天地の親神様の働きを知っておるんです。知っておる者がです、知らんものも同じ様な事になる所に間違いが起こって来るんですよ。神様を軽うみる。神様を疎かにする。そうでしょうが。是が積もり積もるとおかげにならんのです。
神様が是だけ生きた神様である事が分かり。是だけ例えば奇跡を現すそうとなさりゃ現す事の出来なさる神様。それとても、そんなら信心させて頂いて、誰にでも下さるのじゃない、神の権威にかけてでも、いわゆる信心のない者、真うすき者の為に下さるのであって、おかげというものは。神との交流というものが、始まり出したらです、本当に神様との交流を図る為に、私共が磨かなければ交流が出来んのであり、改まらなければ交流が出来んのありと。
私が告別式の時のお説教の中にも申しますした様にですね、どんなに霊の働きというものがです、そのあっておってもです、こちらの魂の清めがなかったらその霊との交流は、例えばどんなに徳お頂いておる霊でも、もう向こうからだけで働きかけが出来んと云う事。こちらの磨いた魂と。いわばこの世で磨いて磨いて、磨いた、徳を受けた霊との働きという事はもう何時でも交流するんだと。そういう例えばなら霊の働きなら霊の働きとは、分からせて、分からせようと霊様もなさる。
神様とても同じ様な事が言えるのです。ですから成程、神様、例えば霊の姿こそは見えないけれども、霊様の実在を信じさせて貰うて、霊様にへの孝養を尽くすというか。丁寧な御奉仕を、御用奉仕をさせて貰うとか、親神様の働きを分からせて頂いて、親神様の心に、本当に沿い奉らせて頂こう、沿え奉らせて頂こうとする願いと意欲というものがある限り、おかげを頂くのです。ここんところは、今日私が頂くここんところをその大事になさらなきゃいけんです。
椛目ではね、生きた神様の働きを頂いておるのですから、それを皆が知っておるのですから。それを知らん振りする様な事があったらおかげにならんと云う事。まるっきり知らん者の様な事になったらおかげを落とすという事。今晩の御理解はここんところを頂いて行かにゃいけんですね。それは、私が何時も申します様に、生きた、言わば動いておる電車に乗るんだと。いうなら、あの生きた電気と同じ事だと。
ですから、活き活きとして通えば、活き活きとして明かりが点いたり、例えば、その精米なら精米、製材なら製材と云った様な働きでも出来るんだけれど。是が一つ間違うたらどう云う事になるかと。生きたものが、生きたものに、触れてはならん所に、パッと触れる所にいわゆるその、電流にかかって痺れてしまう様な事にすらなるんです。そうしてみると生きた神様っちゃ恐ろしいか、と云う事にも言わばなる訳です。というてなら枯れた神様に信心しとるというても、それは信心にはなりませんものね。
ですから、私共がですその生きた神様、生きた神様。生きた霊様の働きというものと、どう言う風に。なら交流をして行かなければならないかと。私今日、善導寺に参りまして、私が行ったらもう直ぐにでもお祭りを私は仕えるつもりだったんです。ですから茂さんもならその積りでおってからちゃんと、玉串持ってから待ってるんです。で私ちょっと火鉢の前に座ったら、ちょっとどうも仕える気分が一つもせんのです。でちょいと待たんの、待たんのというてから、玉串を下ろさせて。
私火鉢の前に座ってから、暫く又信心話しを、皆んな集まって参りましたから、させて頂いた。ものの1時間も話しておりましたでしょうか。そしたら、高橋さんがこう云う事を言うです、親先生おかげ頂きました。本当にあの、お話を頂きよって、さぁどこでそういう気持ちになったか知らんけれど、お話頂きよってここに痞えて居るのがすきっと致しました、とこう言うんです。それで私がんならそのすきっとした心、そのすきっとした所で、さぁお祭りを仕えようかというて、お祭りを仕える。
もうどんこんされんごたるその、神様との交流、霊様との交流が始まるんです。其処から。どうでしょう私が行ってから直ぐ、なら例えば他の者は、例えばそのすきっとした、しとっても、たった一人のなら、高橋さんがすきっとしないものが、本当にその神ながらな事だ、神ながらと言いながら何とはなしにここにべすっと、というて下がらんものがあるのです。下がらんのが当たり前とも思います。けども神様は、それでも矢張り、おかげを下さろうとしておる訳です。
本当に親先生ここがすきっとその、下がった思いで御座いますとこう言う。ならあんたのその下がった、そこでならお祭り仕えさせて頂こうかというて、お祭り仕えさせて頂いたら。神様から頂く事です。変事の変ですね、この品事変の変です。この変という字。変とうい字を下の方だけを取ってから変という字をまず頂いて、その次に下にこうそれを取って、下に心という字を頂いた。あの恋という字。変という字と恋という字は良く似ておる。是と、下は心と違うだけなんです。
神様、こんな事だったばいのって。変な思いじゃいかんという事。それこそ神様には、霊様にはもう慕わしゅうて恋しゅうてと、云った様な心でなからなければ信心にはならんちいう事。是はもう信心には是がもう一番大事なんです。お広前が慕わしゅうて慕わしゅうて。若先生が学院に、の行っております時に手紙をよこしよった。今はあんまりそんな事は御座いません様ですけれども。
それこそ奥城に出るのが、もう当時たまらなかった。夜も夜中も夜中ごと奥城に出る。ただ今教祖の神様と恋愛中だと言った様な事を手紙で言うてやっております。それなんです信心は。それをそのまず言う様にその神様の生きた働きというもの、霊様の生きた働きと、いうものを分からせて頂いてそこから交流するもの。それでもならそこで変な心があったんでは交流が出来ないという事。次ぎにまぁ色々頂いたんです。
信心に、まぁ霊様の方へ移らせて貰ってから、御祈念させて、あのさせて頂いてから、もう本当にもうこげんしれんで、あれもうそれこそ家族の者にも、それこそ私にまで、親先生ここはこうでしたよって、ここんところは、こうおかげ頂いて下さらなければというてこう、私にも色々この、霊様、まぁより、話しかける様にしてから、下さるんです。もうそういう私の心。
家族の者の心がもう何か知らんその雰囲気がもう出来てる訳です。生きたものと生きたものとの交流が、もう何とも言い知れんごたる有り難さで交流して行くのです。そして最後にこういう事がありました。あの洋酒のお供えと頂きますもん。私は後からほんに気の毒かった気の毒いごたる思いがしたんですよ。その所がそのそのこの頃からの洋酒のお供え頂いておったんですけれどもそれをその共励で飲んでしもうた訳です。
はぁ親先生が洋酒のお供えしなさるが思うてからその、この頃お下がりのとこに行った所が一本あったっち。所がそれも、その何とサントリーの、あの何千円かすると大変上等のがあるでしょうが、格好良い瓶に入って。あれが一本ある訳です。もうそれを茂るさんが言うこつじゃないけど、はぁおかげ頂いたと思うてから、それをお供えさせて頂いたんですがね。したら先生があの、洋酒が大変お好きだったから、あのそれで矢張り洋酒を切らせちゃでけんとじゃろうかと私はこう思うておったんですよ。
ところが、あのちょっとそのご直会の用意がしておりますもんじゃから、さぁそこで一杯頂かにゃいかん。もうそん時私は思うたですね、はぁ先生が私に、まぁ親先生は洋酒でなからにゃいかんばってんて、言う事だったじゃろうとこう思うてですね。それを下げて頂いてから、本当にまぁその思いも一緒に頂かせて頂いたんですけれどもね。もう生きたそれと同じ事でしょうが。もう本当に家のお父さんが親先生が見えると、もうそわそわそわそわしよる、方ですもんねち。
もうその気持ちなんですよ。やっぱり。親先生はもう日本酒じゃいかんが。洋酒を出しなさらにゃっち言う、言わばその雰囲気がそこん中あるんですよ。そう云う様な、例えばなら交流もです、生きたものと生きたものとの働きの中から生まれて来るんだと。どちらからもこう、もう慕いよる様な、魂と魂が、そういうものでなからなければならない。そういうなら霊の活き活きとした働きを知りながら。
霊様をお粗末にする所にろくな事はなか。昔から先祖をお粗末にすると、ろくな事ない。ち言うそれなんです。そういう神様の働きを知りながら、その働きをお粗末にする様な事では、お気付けを頂く事は当たり前と云う事になるのです。今日は、今日の御理解はそこんところを皆さん頂いて頂きたいと思うですね。
それはね、椛目で、生きた神様を知らんなら、だから、そんな事ないですよ。分からんのだから。けども生きた神様の働きを知りながら、それを知らん振りする様な事ではおかげにならんという事。信心させて頂くならば、どうして例えば椛目通いなら椛目通いをです、信心をです慕わしいもの、恋しいものにして行く為の信心の工夫が必要であるかと言った様な事が、今日の御理解から分からせて貰ます。
どうぞ。